料理

料理そのものではなく、料理をつくる台所についての話。
料理の話をすると、どんな材料を使ってどのような調理法にするか
ということに興味はそそがれますが、料理が得意な人とそうでない人、
それを分ける境界線は一体何か考えてみると、それは、
料理を作るのが面倒臭い
という人と、
料理を作るのが苦にならない、もしくは、自分で作るほうが楽
という人に別れている、ということなんではないかと思います。

じゃあ、この「面倒くささ」というのはいったい何に由来しているのか。

たくさん要素はあるわけですが、その一つとして、
「料理に取り掛かろうとする前の障壁」が挙げられます。
←たとえばこんなの
このような状態にあると、野菜を冷蔵庫から出しても、置く場所がない、
切る場所がない、切るっつっても、まな板を取り出すのにその周辺のものをどかして取り出して、またさらにその辺のものをどかしてまな板をおいて、包丁を・・・(略
という風に、一つの動作をしようとすると普通ならしなくてもいい余計な動作が、その動作一つ一つに2工程、3工程くっついてきてしまい、料理が完成するまでに、膨大な時間のロスと複雑極まる作業動線を描くため、肉体的・精神的疲労が頂点を極め、そのせいで意識は朦朧とし、しょうゆとみりんと酒と砂糖が、何:何:何:何でどの順番に入れるか、塊の肉の繊維を切る、野菜の大きさをそろえるだとか、イカのワタを抜く時は神経あたりに手を入れてつながりをブチ切るとか、そういった調理工程や、調味料の分量など、重要な要素に注意を傾ける余裕がなくなってしまい、そのため、出来上がりが苦労に対して割に合わなくなり、もう二度と料理なんてするものか、といった心境に陥ることが考えられます。

はっきりいって、料理の材料や作り方は実は2の次で、その工程の負荷や
無駄をいかに減らすか、が調理技術向上の主要部分ではないかと思う。
ただし、ここには落とし穴があって、負荷を減らそうとして、便利グッズや調理器具を
買いすぎて台所に氾濫しすぎると、また振り出しにもどってまな板を出すためにあれをどかして(略
というような事になるので、(まさにうちの母親)器具類は最小限にして、
常に作業スペースがある状態に保つことを心がけるとよいと思う。
まな板を置く場所、切ったものを置く場所、この二つは常にすぐに使えるように空間を確保する。

突然話は飛ぶが、以前習っていた習字の先生の言葉。
「習字であちこち汚れる、という人は、もうその時点で字が下手だということがわかる。なぜなら、習字がうまくなれば一つ一つの動作が合理的、最適化されているので、汚すという無駄な動作は生まれようがない。」小学校の頃はぼんやりとしていたが、20過ぎてからなんとなくその意味がよくわかるようになった。
要するに負荷が最小化されている状態を保つように行動するようになるのだ。

雑然としていること自体は否定しない。が、意味のわからない雑然では使いにくく、意味のわかる雑然なら使いやすい。
食器の重ね方とか、しまった鍋が重なっているとか、引き出しに入った箸とかは結構雑然としている。
←うちの台所
特別片付けているわけではない。食器類が水切りかごに入っている時もあるし、シンクに食器がたまりっぱなしになってるときもある。
しかし、この写真の状態が一応ニュートラルな状態で、多少の変動はあるが恒常性を保つかのように、この状態に戻る。
ええ!と、驚かれる人もいるかもしれないが、だんだん料理をするようになると、この状態が最も負担が少ないからこうなる、ということが実感としてわかってくるかと思う。
水切りカゴの前が、まな板置き場であり、右上のトレーの上が切ったもの置場である。常にここは空間が空いている

最後に、だからってそんなに自炊して、どんなメリットがあるのよ?確かに外で食べるよりか安上がりかもしれないけどさ、という人。
自炊することによって、日常行動のために外に出る必要性が減り、ひきこもりの完成度が高くなるのです。
すばらしいメリットです。

今日の夕食は別のブログに掲載しました